お美代の方が主人公となる大奥「最凶の女」が今晩放送されます。実はお美代は僧侶日啓の子供だという真相は隠されたままのドラマのようです。歴史とは、通常、「勝者の書」とも言われ、敗者の弁が語られることはありません。「最凶の女」の主人公となるお美代は、中野清茂の子として登場します。しかし、御殿での「ヒソヒソ話」を聴けば、驚くべく意外な真相があるのかも知れません。「秘密のご祈祷」と一緒に探ってみましょう。
お美代の方は「僧侶日啓の子」だった
後に専行院となる徳川家斉の側室、お美代の方は、今晩のドラマでは、家斉側近の中野清茂の子として登場します。
しかしながら、「御殿のヒソヒソ話」によると、清茂の子ではなく、実は本当の父は、僧侶日啓であるとも言われております。
そして、日啓が美しく育ったお美代を、側近の中野清茂に奉公に出したのが真相のようです。つまり、ドラマとは反対になるのです。そして、その後、中野清茂がお美代を自分の養女として、大奥に奉公に出したことにより、将軍の側室となる道が開けたという訳です。お美代がまだ17歳の時です。
44人もの側室が居たとされる11代将軍家斉が37歳の時に、このお美代は将軍の側室となり、「お手付き」となったのです。当時、家斉にはすでに20余名の側室が居たというのですから、家斉はよほどお美代を気に入ったのでしょう。
側室となったお美代は、すぐに懐妊して、家斉の34番目の子を産みます。後の溶姫です。お美代は続けざまに仲姫、末姫を産むのですが、男児には恵まれず、二番目の娘、仲姫も子供のうちに亡くなります。溶姫は、加賀藩の前田斉泰へ、そして末姫は広島藩の浅野斉粛へ嫁ぎました。因みに東京大学にある赤門は、この溶姫が嫁ぐ際に造られたものです。
お美代の方も、年齢を重ね、やがて三十路が近づいてくるようになると、次第に焦り始めたようです。何故なら、三人の子供はもうけたものの、お美代は男児を産むことができずにいたからです。大奥では、三十歳になると、「お褥下がり」という決まりから、将軍とご一緒できなくなるのです。
当時、三十路はすでに「高齢出産」の部類とされ、元気な子供を産むために、若い側室を相手にすることになると、自分は「御用済み」となる訳です。
お美代の方が考えた秘策とは?日啓のご祈祷とは?
最盛期には3000人近くも居たとされる大奥の女中たちですが、将軍と直接面会を許された女中たちは、御目見得以上とされ、だいたい100名くらいの人数だったようです。御目見得以下とされる女中が残りの大半を占めていた訳です。
とろこで、御目見得以上の女中たちは、幕府の老中に匹敵する上臈御年寄から中臈まで、将軍の側室などが含まれていましたが、「30歳定年」で御用済みとなると、もう本来の目的である、「将軍の世継ぎを産む」仕事が無くなってしまう訳です。
そして、このまだ若い30歳過ぎの「お役御免」が、いろんなドラマを引き起こす訳です。頭脳派だったお美代は、この「30歳定年」の掟を利用して、「日照りの上臈たち」を「ご祈祷」として、父日啓の寺に送り込んだのです。
この寺には元歌舞伎役者の住職、日潤というイケメンの僧侶がいて、「通夜」と呼ばれる、夜通しで悩み事を聞く説法が執り行われていたのです。説法とは詭弁で、日潤が行っていたのは、三十路過ぎの上臈たちに「快感」を与えることでした。この「秘密のお通夜」は「日照り続きの上臈たちの人気」となり、紹介したお美代の方の人望が厚くなったという訳です。
後にこの策が功を奏し、大奥の実権まで手にするようになったお美代の方でしたが、前田斉泰と実娘溶姫の間に生まれた子供、前田慶寧を跡継ぎにするように家斉に頼み、その後遺言書まで偽装したと言われています。
それほどまでして、自分の大奥での権力に固執したお美代の方は、家斉の死後、12代将軍家慶の時代になると、寺社奉行阿部正弘の摘発で、父日啓が「イカサマ祈祷」で検挙され失脚し、お美代の方は養父の中野清茂と一緒に座敷牢に入れられることになりました。
このような背景を知っておくと、ドラマを観る視点も変わってくるでしょうが、どうやら、この「日啓=お美代の父」説の信憑性は非常に高いようです。
そのお美代の方が登場する大奥「最凶の女」は、沢尻エリカ主演で、今晩9時、フジテレビ系で放送です。渡辺麻友とのラブシーンも話題ですよ。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。
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