江戸城大奥とは?誰が何のために大奥を作ったの?

大奥

ドラマ「大奥」が11ぶりの復活と話題になっています。江戸城にあった大奥とはいったいどんな場所で、大奥とは誰が何のために作ったのでしょうか?大奥の生誕を始め、今に伝わる大奥の秘話を探っていきましょう。

 

個人撮影

皇居 江戸城跡

 

江戸城大奥とはどんな所?

江戸城と言えば、江戸幕府を開いた徳川家康の居城ですが、ここが江戸時代の政治の中心となりました。将軍はここから、日本全国の治世を行った訳です。

大奥とは、簡単に言うと将軍の居住地ということが言えます。そして、その職務を遂行する場所でもあったのです。

一般に知られる「江戸城大奥」とは、徳川家三代目、家光時代、乳母であった春日局が始めたとされるのですが、整備したのが春日局であり、実は初代将軍の徳川家康の時代から存在したとされます。

江戸城において将軍はその職務を遂行するに当たり、、私的な居住地と政治を執り行う場の境界ははっきりとしておりませんでした。つまり、住居と職場の区別が無かった訳です。

そして、二代目の将軍、秀忠の時代になって、本丸と中奥、そして大奥がきちんと分けられ、本丸は幕府の政治を取り仕切る場所、中奥が将軍の執務室、そして大奥が将軍の私邸として一応の区分けに居たりました。

それが、三代目の家光の時代になって、春日局が中へ入れる位や人数まで大奥を組織化して、それが一般的に「大奥」の誕生とされ、今も語られています。

このように大奥とは将軍の住まいのことですが、「私邸」と言っても、そんじょそこいらの「私邸」とは訳が違うのです。

個人撮影

江戸城図

 

江戸城における大奥は、本丸御殿のほぼ半分、敷地面積で6000坪もあったと言います。これは、大きさで表すと東京ドーム二つ分に相当する広さです。

一説によると、三代目将軍家光の時代、大奥に勤める女中や使用人は最大で3000人も居たと言います。300人の間違いではありませんぞ。何とその数3000人というのですから、将軍様も大変だったでしょう。戦国時代から江戸時代になり、天下泰平、家康が望んだ通り、何も変わらねば徳川の天下は安泰であるという哲学通り、人質を取られ、参勤交代で財力を削がれると、もはや徳川に刃向う抵抗勢力はおりませんでした。

 

大奥とは誰が何のために造ったのか?

関ケ原の合戦後、日本を平定した徳川家康は、日本を「守る」政治、今でいう「保守」型の政治を目指しました。すでに、織田信長の時代には西洋列強の国々がヨーロッパからアジアに押し寄せてきているのは分かったいました。

そこで、家康が目指した政策は、「外国の侵略から日本を守る」「徳川幕府の安泰=国の安定」の二つが基本であり、諸大名による謀反などの芽を摘む政策と鎖国などによる外国からの侵略阻止が骨子になっていた訳です。実際にこの政策は間違っておらず、以後徳川政権300年に於ける外国からの侵略はありませんでした。

そして、内政の維持の方でも、諸大名の参勤交代による蓄財阻止と、正室と世継ぎの江戸逗留義務によって謀反を封じ込めるなどの政策で国内の政治的安定を図りました。朝鮮を目指した天下人秀吉とは正反対の政策を家康は目指した訳です。

こうなると、次の心配は徳川家自体の体制維持となります。そこで、大きな問題となるのが、将軍の世継ぎの問題です。大奥の存在とは、この「将軍の世継ぎ」と切っても切れない関係にあるのです。

 

大奥での教育ママ春日局の功績と悪影響

徳川政権300年の基礎を作ったとされる初代家康、二代目秀忠、三代目家光です。家康から見て孫にあたる家光は幼少時から春日局が乳母となり、育てました。春日局は名を福といい、明智光秀の重臣・斎藤利三の娘でした。

春日局は竹千代が小さい時から、文武両道、相当厳しい教育を施したようで、現代でいう「スパルタ教育」の元祖ともいうべきものでした。そのせいもあり、幼い竹千代は子供の頃に「女性恐怖症」となってしまいました。

そこで、竹千代は若いころは女中などには興味を持たず、もっぱら相手にするのは身の回りの世話をする小姓たちだったのです。若い男性を相手にする方が好きだった訳です。春日局の影響が悪い方へ出てしまったのです。(笑)

大奥

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その後、20歳となった家光は、公家の鷹司孝子を正室に迎えるのですが、孝子は年上で気位も高く、それほど美人ではなかったようで(少なくとも家光の好みではない)家光とは上手くいかず、輿入れ後、まもなく孝子は大奥から中奥へと別居してしまうのです。

これを機に、ますます「男への関心は強まり」、家光は小姓漁り三昧の日々を送ります。しかし、これに気付いた春日局は竹千代の好みを逆手に取り、一計を案じました。それは自分の養女であったお振を小姓に姿に変身させて、竹千代の褥にさせたのです。この策は見事に当たり、竹千代はお振にぞっこんとなり、やがてお振は懐妊して、最初の子、千代姫を出産したのです。ここに家光の「女性恐怖症」は解消されました。

こうして、「女性恐怖症」を克服した家光には「最後の大仕事」が待っています。世継ぎです。

お振のお蔭で女性恐怖症とおさらばした将軍の元へ、春日局は次々と新しい女性を送り込ませ、お楽が4代将軍家綱を、お夏が三男の綱重を、そしてお玉が五代将軍となる綱吉をもうけたのです。結局、あれほどの「女性嫌い」だった家光は6人の子供をもうけたのです。因みに「玉の輿」の所以はこの「お玉」から来ているそうです。

 

大奥における階級とは?

大奥に於ける一番上に立つのが、「御台所」(みだいどころ)と呼ばれる将軍の正室でした。当時、御台所と言えば、正室に迎えるのは天皇家、或は宮家か公家というのが仕来たりであり、11代将軍家斉と13代将軍家定の御台所となった広大院と天璋院は、いずれの島津家の出であったため、一度、宮家の近衛家の養女となってから輿入れをする形をとりました。

大奥とは階級社会です。階級制度は整えられ、下位の者は上位の者に対して「絶対服従」だったことは言う間でもありません。

将軍の正室(御台所)を頂点として、その側近から奥女中や御使番、御半下まで約20の級職があり、お給金もトップの御台所の1200万円クラスから御半下の10万円クラスまでに分かれていたようです。

テレビドラマや小説などには「大奥総取締」という役職が登場します。今回のドラマでも女優の浅野ゆう子が大崎局でキャストされています。しかしながら、厳密には「大奥総取締」という職名は存在しなかったようです。ただし、執務を執り行う御年寄の中でも抜きんでた権力を持つ年寄も居たことも事実で、大奥総取締という職名は、そのような人物に宛がわれるようになったようです。
将軍の継続が幕府の「命題」とされ、世継ぎが政治の中心となることで大奥の存在価値が高まったと見ることができる訳ですが、そのような時代となったからこそ「大奥」に出てくるようなドラマが生まれたと言えるでしょう。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。

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