米倉涼子「かげろう絵図」の見どころと大奥の背景

かげろう絵図

米倉涼子主演の「かげろう絵図」、松本清張原作で珍しい時代劇ですが、「大奥」を得意とするフジテレビで放送されます。「かげろう絵図」の時代背景や大奥での人間関係、見どころなどを探っていきます。

 

「かげろう絵図」の舞台となる大奥

国家予算の四分の一をもぎ取っていたとされる将軍の居所である江戸城大奥。「かげろう絵図」の舞台となる大奥では、多い時で、女中が3000千人を超えるほどの巨大組織となっていました。

徳川家康が興し、孫の家光の時代までに、盤石の基盤を作った徳川将軍家では、それ以降となると、将軍の仕事の「メイン」が、将軍家の存続、つまり、世継ぎを絶やさないこととなったのです。

 

江戸時代、当時、人命ということを考えると、これは実に重要な課題であったのです。何故なら、将軍といえども、健康とは限らず、若年で急逝することも多く、世継ぎに男子が生まれる幸運ばかりではありませんでした。

そして、世継ぎの候補が複数生まれると、今度はその世継ぎ争いが勃発するのです。このような背景を十分理解すると、大奥の存在の意義や、何故、大奥で権力争いが生じるのか、あるいは「表」の政治と「裏」の権力の関係などの利害関係が分かるようになってきます。

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「かげろう絵図」作者、松本清張自身のミステリー2件

松本清張といえば、日本におけるミステリー作家の第一人者とも言えますが、彼自身の人生、生まれ故郷や誕生日などにミステリーの要素があったことを知る人は、多くはないかも知れません。知っている方は、よほどの「清張ファン」なのでしょう。

松本清張記念館なるものが、北九州市にあるのをご存じでしょうか。しかしながら、北九州市は、戸籍届を出した場所であり、清張の実の出生地は広島だったというのです。

すでに、多くの刊行物に関しては、北九州市の生まれとされていますが、徐々に清張の「広島生まれ」説が、事実として認識されるようになってきているようです。

松本清張が他界した1992年(平成4年)の2年前、1990年、新聞社のインタビューの中で、清張自身が「小倉生まれということになっているが、ほんとは広島です」と語ったそうで、戸籍届は兎も角、出生地に関しては、広島生まれが、真実であるというのが定説になってきました。

そして、もう一件、松本清張の誕生日もミステリーなのです。(笑)

長い間、1909年、つまり明治42年、12月21日が松本清張の誕生日とされてきましたが、2月12日説も存在しているのです。(笑)

実は前述した松本清張記念館(北九州市)にある、清張の記念写真の裏に「明治四十二年二月十二日生まれ、同年四月十五日写」と書かれているそうです。個人が書いた記録であることや、ほかの写真なども撮影した写真館が広島市に実在したことから、清張の誕生日は明治42年2月12日で間違いないようです。

どうやら、12月21日の誕生説は、前述した出生地の記録とも関係しているようです。つまり、出生届の記録時に、「12月21日生まれ」と記述したものが「犯人」のようです。

どういうことか、お若い方にはピンと来ないかも知れませんね。実は、それほど遠くない昔、日本では出生届のような義務が、まだ行き渡っていなかった時代だったのです。

田舎などのんびりした風習でなくとも、生まれた子供が成長するかどうか分からず、(かげろう絵図の時代と変わりないでしょう)役所に届けるのは生後の成長を見届けてからするような場合は多かったのです。

実は管理人も昔、母方の祖母から、同じような話を聞いたことがあるのです。聞いた祖母も言ってましたが、「誕生日と聞かれると困る」というのです。それは、戸籍にある「誕生日」と本当の誕生日と二つあって、どちらのことだか、訳が分からなくなるからです。(笑)

 

かげろう絵図の見どころと背景

徳川11代将軍、別名「おっとせい」との異名がある徳川家斉は、15歳で将軍に就任して以来、将軍在位50年の最長記録保持者でありました。

家斉は64歳になるまで、将軍職を譲らず、69歳で亡くなる直前まで実権を掌握していたというのですから、よほど「住み心地」が良かったのでしょう。

それまでの将軍は、ある程度の歳になると、後継者に道を譲るのが習わしでしたから、腐敗を生む土壌がここにも潜んでいたのではないでしょうか。

 

「過ぎたるは及ばざるが如し」、まったくその通りで、将軍家斉は側室44人、産ませた子供が55人ともなると、子供の縁組も容易ではありません。

諸藩大名に嫁がせたり縁戚を結ぶたびに莫大な出費が生じます。将軍の取り巻きの大老、老中にも政の財政問題が大きく伸し掛かるようになります。

 

そのような背景をもとに、「かげろう絵図」を三つのグループに分けておきましょう。

まずは、徳川家11代将軍の家斉のグループです。ここには、家斉の正室の寔子、側室のお美代の方、お多喜の方です。

そして、これからが「けげろう絵図」の中心となる二つのグループ、中野石翁(國村隼)の派閥とそれに対抗する脇坂安薫(竹中直人)の派閥です。

中野石翁の名は清重といい、徳川家斉の側近中の側近として活躍した人物です。のちの側室となるお美代の方の養父とされ(実はお美代は僧侶日啓の子供であった説が有力)、男児のできない家斉に近づけるべく大奥入りを画策した人物でもあります。

中野清重が送り込んだお美代の方、そして、縫をスパイとして大奥に送り込む脇坂安董、この構図を抑えておくと背景が分かりやすいでしょう。

 

中野清重は、「自分の養女」お美代の方が、将軍の目を引き、大奥内で力を持つようになると、将軍に対しても影響力を持つようになります。そうなると、自然な形で、清重にすり寄ってくる諸大名も多くなります。

階級社会のシステムが出来上がってしまうと、それを乗り越えて出世する道は「賄賂」ということになります。従って、中野清重の元には各地から賄賂の品々が届くことになります。

女児三人をもうけたお美代の方でしたが、残念にも男児の出産は叶わず、それとともに自分の大奥での立場を憂慮するようになりました。

そこで、お美代は実父である日啓と図り、「御祈祷」と称したサービス業を始めるのです。三十歳を過ぎたお褥下がりの中臈たちをお美代の紹介で「御祈祷」に参じる中臈たちを日ごろの「日照り」から解放する「御祈祷」を始めたのです。

そして、歌舞伎役者の隠し子とされる日潤が、延命院にて大奥女中と密会しているとの噂を内偵させ、助平坊主たちを検挙したことで、脇坂安董の功績は大きく評価されたのです。これが、世にいう「谷中延命院の一件」です。

 

「かげろう絵図」で米倉涼子の新しい魅力の発見

かげろう絵図」は、昭和34年に大映で映画化されました。島田新之助役に市川雷蔵、そして、登美(縫)役には山本富士子が共演していました。

その後も、昭和35年には日本テレビでドラマ化(連続ドラマ13回)され、昭和58年にはフジテレビで「松本清張のかげろう絵図」としてスペシャルドラマとして放送されています。ちなみにこの作品での視聴率はウィッキによると13.7%だったそうです。

 

今回が時代劇出演二作目となる米倉涼子が、大奥入りする縫をどのように演じるのか、非常に興味深いです。ダンスやミュージカルに挑戦してきた米倉涼子が、「時代劇」でも、エポックメーキングとなる「かげろう絵図」で縫を演じてくれるのではないでしょうか。

大奥を舞台とする「かげろう絵図」の放送は、もうすぐ4月8日金曜日、午後9時からフジテレビ系で放送されます。お楽しみに。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。

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